プロフィール
生年月日 | 2002年12月23日 |
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出身 | 大分県大分市出身 |
成績(シングルのみ) |
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2024.2.2
天井知らずの注目株 目の前の相手を追い抜くことに集中
大島沙耶佳は、小さな目標を一つずつクリアし、カヌースプリントの日本トップランカー入りを果たした若手の注目株だ。カヌーにはカヤックとカナディアンの2種類の艇がある。それぞれ1人、2人、4人乗りがあり、選手は鍛え抜いた全身の筋肉を使って、0.01秒を争う熱戦を繰り広げる。大島の主戦場はスプリントの1人乗り。「練習をすればするほど成果が出る。自分でもどこまで上に行けるのか楽しみ」と自身に期待する。
大島がカヌーと出合ったのは中学3年のとき。陸上の中距離選手だったが、当時のトレーナーから「体力があり、体の使い方がうまいからカヌーをやってみれば。競技人口がまだ少ないので日本一を狙えるかもしれないよ」と声をかけられ、高校から艇に乗ることになった。
「初めて艇に乗ったときからうまくこげた。指導者から聞いた話を、自分の体に落とし込めた。当時は『再現性が高い』と言われてもピンとこなかったけれど、体の細部までコントロールすることをイメージし、意識することで、感覚が研ぎ澄まされる感じはあった」
すぐに頭角を現し、高校2年時には大分県でトップになり、全国高校総体に出場した。その年の茨城国体で入賞すると、日本一が現実味を帯びてきた。しかし、高校3年間の集大成となるはずだった年は、コロナ禍で全ての大会が中止となる。競技を続けるか、辞めるか悩んでいた時、恩師の言葉で吹っ切れた。「『沙耶佳が選んだ道を応援する』と言われて、自分がどれだけ上を目指せるか試そうと思った」。
大学はカヌーの強豪校・武庫川女子大に進学。「強くなれると思って、思い切って飛び込んだ」が、日本のトップレベルの選手がそろう大学では、底辺からのスタートとなった。練習量はこれまでの倍となり、内容もハード。おまけに生活環境も変わり、毎日ホームシックで泣いていた。それでも休まずに練習に参加したのは、同期の存在が大きかったという。「みんな、不安な思いは同じだったから、助け合い、支え合えた。寂しさを乗り越えたことで精神的に強くなった」 入学当時のタイムは下から3番目。練習は一番下のクラスだったが、「『このクラスでトップになろう。それが達成できたら、次のクラスでトップになる』と、目の前の選手を追い抜くことだけを考え、必死だった」。練習から勝負にこだわるようになり、勝つことが喜びに変わると、カヌーが面白くなった。夏の全日本学生選手権大会(インカレ)には選抜メンバー入りしていた。
大島の長所は再現性の高さだけではない。しなやかで無駄のないフォームでパドル(オール)を使いこなし、左右交互にしっかりと水をつかむ。スムーズにロスなく艇を押し出し、滑らかに水面を疾走する。正確なリズムを小気味よく響かせ、美しいフォームに狂いが生じることはない。
大学で初めての公式戦となったインカレではシングルで入賞し、ペアのリレーで優勝。華々しく「1年生デビュー」を飾り、翌年のインカレで、シングルで優勝すると、日本最高峰の大会となる全日本選手権に出場し、表彰台に立った。その活躍が認められ、年代別の国際大会に出場するようになり、気づけばパリ五輪を目指せる位置まで上り詰めていた。
「高校では国体の5位が最高だった。大学では周りにすごい同期や先輩がいたので、追いつき、追い越すことだけを考えて、ここまではい上がったという感じ。国際大会では外国籍選手の体の大きさに驚いたけれど、パワーが全てでない。私には私のこぎ方がある。会場によってこぎ方を調整して、スーッと艇を滑らせることを追求したい。こぎ方に正解はない。今も完璧だと思っていないから、まだ限界ではない。上に行けば行くほど力を発揮できると思っている」
「今年3月の日本代表選考会が大一番となる。「まずはUー23(23歳以下)の日本代表になってUー23世界選手権に出場することが目標。そこで結果を出して、年齢制限のないシニアの大会で表彰台に上がれば、パリ五輪も見えてくる。ただ、今の段階で出場できる確率は3、4割。やれることをやるだけ」と話す。これまで壁に当たったことはなく、スランプもないが欲もない。「私は目標を立てるのが得意だと思っている。いきなり無理な目標は立てない。この先輩についていく、それができて、その先輩を抜いたら次の先輩、また次の先輩と、段階をつくってはい上がった。これまでと同じように、目の前の相手を追い抜くことだけを考えたい」と屈託のない笑みを見せる。無限の可能性を秘めた大島の、この先の活躍に期待したい。