自転車


生野 優翔 Yuto Shono

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プロフィール

生年月日 2001年11月21日
出身 大分県大分市
成績
  • 2019年 アジア選手権大会 チームパシュート/優勝
    全国高校選抜大会 ポイントレース/優勝
  • 2021年 全日本学生選手権 マディソン/優勝
    全日本大学対抗選手権大会 チームパシュート/優勝
  • 2022年 栃木国体 ポイントレース/3位
  • 2023年 K全日本大学対抗選手権大会 チームパシュート/優勝

2023.11.29

誰よりも先にゴールを目指す、それが全て

 大学4年間の集大成として挑んだ「全日本大学対抗自転車競技選手権大会(インカレ)」では、トラックレースの花形種目「4kmチームパシュート」で優勝した。生野優翔は冷静なレース運びで勝機を探り、全神経をペダルに集中して駆け抜け、チームの勝利に貢献した。2021年の同大会で自身が塗り替えた学連記録を2秒近く縮め、大会新記録と学連新記録を更新した。「狙っていたのでうれしかった。大きなけがもあって、思うような結果を残せないときもあったが、満足のいく4年間だった。次に向けて走り出せる」と新たな目標を見据えた。

 

生野が自転車競技を本格的に始めたのは日出総合高校に入学してから。小学3年から中学3年まで陸上の中距離選手として活躍したが、「手応えがなかった。陸上では日本一になれないとの思いもあって、他の競技で頂点を目指したいと考えていた」。悶々(もんもん)とする日々を過ごしていたときに、競輪選手と知り合いだった母親から自転車競技を勧められた。「小さい頃からマウンテンバイクで野山を駆け回っていたし、自転車には興味があった。これだ!と思った」と、すぐに近所の自転車店でロードバイクを購入した。 高校に入学してから3年間、自宅から高校までの40km を毎日往復した。「部活の練習以外に毎日80km 走るのだから、速くなるでしょ!」と述懐する。練習では常に全力で自分を追い込んだ。「まだ行ける、もっと力を出せるはずだ」と限界の壁を突き破った。試合では競い合う選手たちと駆け引きして、「誰が最初にゴールできるか、それが全てだった」。勝ち負けが明快なレースで勝利する喜びを知った。 高校2年時の全国高校選抜大会のポイントレースで念願の日本一になり、そこからジュニア年代の日本代表に選出されるようになる。「アジア選手権」など国際大会の経験を積み、着実に成長した生野は日本大学に進んだ。

スーパールーキーとして迎え入れられたが、高校とガラリと変わる環境に戸惑った。「寮生活になり、生活リズムが変わった。共同生活になじめず、上下関係にも悩んだ」。今では「最高だった」と思える練習環境に慣れるまで、時間を要した。「効率の良い、短期集中型の練習となり、物足りなさを感じていた時期もあった。雑務が多く、思うように自主練習ができないことをストレスに感じたこともあった」。大学を辞めようと思ったことは一度や二度ではないが、高校時代に日の丸をつけて国際大会に出場した同学年のメンバーの支えがあり、踏みとどまった。インカレには1年時から出場したが、「期待に応えなければいけないとの思いが強すぎた」。結果が出ずに苦しい1年間だったが、もがき苦しんだからこそ「何かを変える必要がある」と思えた。

 

ガムシャラだった高校時代と違い、大学では、根性だけでは練習についていけなかった。体の負荷をかけることが全てではない。休むことの重要さを知り、体調を整えることも考えるようになった。その頃から、食事管理や栄養学を学び始めた。高校時代は手をつけなかったウエイトトレーニングにも取り組むようになった。1時間半しか練習できない状況で自分を追い込み、ダッシュ力と持久力を高める練習方法を考えた。「自分の考えたメニューでどんな効果が出るか、自分自身が実験台になり成果を出すことが楽しくなった」。練習メニューの質が高くなり、2 年、3年と学年が上がるにつれて自主練習の時間を割けるようになって、自信を取り戻した。 体重は高校卒業時から18kg 増える。筋肉量の増加とともに体幹も強くなり、空気抵抗を減らすために前傾姿勢をとるフォームも固まり、記録も伸びた。さらに「空気の流れを意識したフォームを微調整できるようになり、何本も走れるようになった」。

大会に出れば表彰台に上がることが増え、完全復活の手応えを感じていた矢先、レース中に落車事故に遭う。幸い命に別状はなかったが、脳振とうでバランス感覚を失った時期があった。1カ月半のリハビリで復帰したが、トップコンディションに戻るまでには時間がかかった。その間に、高校の頃からの夢だったプロロードレーサーになるチャンスが何度か訪れたが、条件が折り合わず契約に至らなかった。脚質がロード向きでないことは感じていた。

 最終学年となり、周りが将来に向けて動き出したとき、一般企業への就職も頭をよぎったが、4年間の集大成と位置付けたインカレで結果を出すことだけを考えた。「自分には自転車しかない」と自然に思えた。そこから新たな道を探し、競輪選手の道を志すことに決める。

目標が定まれば、そこに向かってペダルをこぐだけ。「もう迷いはない」。誰よりも速くゴールを目指す。自転車競技を始めた頃の思いは今も変わらない。「練習でできないことは本番でもできない」と、練習からリミッターを外し、おのれを追い込むことも変わらない。

 

NEWS

 
2022年10月8日 大分合同新聞