視覚障害者柔道

工藤 博子 Hiroko Kudo

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プロフィール

生年月日 1984年11月9日
出身 大分県大分市
成績
  • 2020年 German Open and Training Camp 2位
  • 2019年 IBSA Judo qualifying tournament USA 2019 3位
    International German championship Para judo2019 3位
  • 2018年 アジアパラゲームズ 3位
    全日本視覚障害者柔道大会 優勝

2022.02.28

障がいも年齢も関係ない、人生は変えることができる

15年のブランクを経て、34歳で視覚障害者柔道の日本代表として東京2020パラリンピック競技大会の舞台に立った工藤博子。未熟児網膜症により、左目はほぼ見えず右目も視力は0.1以下。学生時代、柔道に打ち込んだ経験があるものの、卒業後はスポーツとは無縁の介護士の職を選んだ。世界の舞台に立つなど考えもしない人生だった。そんな工藤がなぜ視覚障害者柔道の道へ進んだのか。なぜ上を目指し、あがき続けるのか。親友兼コーチと二人三脚で駆け抜けた東京大会までの道のりをたどる。

胸に刺さった親友の言葉

「東京2020大会でメダルを取ろう」。高校卒業後、15年間柔道から離れていた工藤を再び柔の道へ呼び戻したのは、高校の柔道部で共に汗を流した親友であり、視覚障害者柔道のコーチを務めていた仲元歩美さんの熱心な誘いだった。

「最初は断った。15年も一般人だった自分にやれるはずがないと思った」。中学でヤワラちゃん(谷亮子選手)ブームに触発された友人と柔道部を立ち上げ、高校は柔道の強豪校に進学。健常者に交ざり県大会個人3位の成績を残したこともある。しかし、介護士としてキャリアを積んでいた工藤にとって柔道はすでに過去のものだった。才能がある、やれるという言葉を信じることはできなかった。

 

1年間固辞し続けたが、「自分の人生を生きてみよう」「あなたの知らない世界に出会える」、仲元コーチのそんな言葉が胸に刺さった。ちょうど悩みを抱えていた時期でもあり、新たな道に賭けてみたいという気持ちが抗えないほど大きくなった。

目標は東京2020大会の金メダル。2018年、仲元コーチとの二人三脚が始まった。

 

葛藤の中で見つけた答え、自身の変化

上京し、柔道漬けの毎日が始まった。ブランクの影響は予想以上に大きかった。最初は道着を着るだけで縫い目が肌に擦れ、出血。骨折や脱臼などのけがにも悩まされた。何より仲元コーチとの関係性の変化に戸惑った。「私が健常者の中で当たり前に生きてこれたのは友人のおかげ。師弟関係になれば友情が壊れる。それが嫌だった」。しかし仲元コーチは譲らなかった。工藤の才能に惚れ込むと同時に、自分より他人を優先してしまう工藤の人生をもっと豊かにしたい。自分のために生きてほしい。そんな友としての思いがあった。「友情を壊してまでメダルなんていらない」という工藤に対し、「それでも博子の人生にはメダルが必要だ」と仲元コーチは反論。泣きながら言い合いになったことも一度や二度ではない。

「どうせ私にはできない」そんな思いが工藤の頭から消えなかった。

 

転機は初の大舞台となったアジアパラゲームズ IB SA世界選手権の日本代表候補選手選考大会(2018年)だった。「優勝できなければ大分に帰る」という決意を胸に刻み、臨んだ大会で見事に優勝。「奇跡だった」と笑うが、勝利の高揚感、惜しみなく送られた温かい声援は迷いを吹っ切るに十分だった。「私にもできるのかもしれない」。初めてそう思えた。

その後も国内外のさまざまな大会で好成績を残し、東京2020パラリンピック競技大会代表の座を射止めた。

東京大会の会場である日本武道館の畳の上に立った感動は今も鮮明に覚えている。「一番感じたのは応援してくれた人の思い。目に見えるものではないが大きなパワーや安心感をもらった。無観客でも関係なかった」

結果は2回戦敗退。敗者復活戦でも一本負けを喫した。見守ってくれた両親、工藤が会場に現れただけでテレビの前で号泣したという地元の友人、切磋琢磨した仲間、そして二人三脚で歩んできた仲元コーチ…。支えてくれた人に見せたかったメダルは遠かった。不甲斐なさに目が開けられないほど泣き、同時にパリ大会でのリベンジを誓った。

 

敗北を知って芽生えた勝利への執着

「もっと力をつくせたのでは」。東京大会後に仲元コーチから厳しい言葉を掛けられた。「近い存在で、私と同じくらい悔しい思いをしたからこその言葉。腹が立ったが、その気持ちは誰よりも理解できた」。元々負けん気や闘争心と無縁の性格。しかし、東京大会での敗北後、勝ちに対して貪欲になった。「(東京大会の)道着を見ると悔しさが甦る。燃やしたいと思ったこともあった」。そんな強い思いがパラリンピック・パリ大会を目指す原動力になっている。

プレッシャーはもちろんある。「最初は気楽だった。15年ぶりの復帰で、努力してきたという自負も、背負っているものもなかった。でも今は違う」。日本代表を経験したことで意識は大きく変わった。

パラリンピック・パリ大会の代表権を得るのは簡単ではない。公平を期すため、全盲とそうでない人を分けることになり、工藤が出場する弱視の階級は6階級から4階級へと大幅に減少。狭き門となっている。だが、「視覚障害者柔道は奥が深い。今も毎日新しい発見がある。パリへ向け着実に進化している」と前を向く。今春からはより柔道に専念できる環境を求め、職場を変えるなど新たな一歩を踏み出す予定だ。

 

自分の人生を変えるために飛び込んだ視覚障害者柔道の世界。「私にできる訳がない」と思った時期もあった。しかし、今は間違いなく世界を目指すことができる場所に立っている。

最後に「チャレンジすることに障がいも、年齢も関係ないと知った。世界が広がった。きっかけをくれた仲元コーチや支えてくれた人に、次はいい報告がしたい」と晴れやかな笑顔で決意を語った工藤。パリ大会まで3年。二人三脚で走り続ける。

 

工藤 博子の哲学

感謝して走り続ける