車いすバスケットボール

安尾 笑 Emi Yasuo

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プロフィール

生年月日 1993年6月10日
出身 熊本県益城町
成績
  • 2021年 東京2020パラリンピック競技大会 6位
  • 2019年 アジアオセアニアチャンピオンシップス出場
  • 2018年 インドネシア2018アジアパラ競技大会出場

2021.12.27

笑みを絶やさず、苦難の道を乗り越えてたどり着いた夢舞台

車いすバスケットボールに出合い、東京パラリンピックに出場するまで約10年。安尾笑は全力で駆け抜けた。「目指しているものが大きい分、犠牲も大きい」は、偽りなしの本音だ。プロでもなければメジャースポーツでもない競技のアスリートが、スポットライトを浴びるためには多くの困難を乗り越えなければならない。両足に先天性のまひがあるため、幼い頃から松葉づえを使っていた安尾がどのような人生を歩み、パラの舞台に立ったのか 。今後の競技人生にも興味は尽きない。

 

今でも鮮明に残る“走る”という感覚

東京パラが終わって数カ月。「無観客だったが普段の国際大会とは異なり、メディアの数が違った。車いすバスケだけでなく、パラスポーツを知ってもらうきっかけになったと思う」と振り返る。大会開催の前後は代表合宿や関係各所へのあいさつ回りなどで目まぐるしい毎日だったが、ようやく普段の生活に戻った。「ずいぶん昔のことのように思える。燃え尽きた? そうかもしれない。あれ(東京パラ)以上を見つけるのは難しい。一度リセットして、もう一度パラを目指したいと思うかもしれないし、そうでないかもしれない」。簡単に3年後のパラ大会を目指すと言えないのは、これまで歩んできた道のりの厳しさを物語っている。

子どもの頃から松葉づえで過ごした。「恥ずかしがり屋で表に出るのが好きではなかった。松葉づえを使っていたのは車いすに乗ることが嫌だったから。会話をする際、立っている人と目線が違うと会話に入れていない気がしていた」。そんな少女が車いすを使ったスポーツに興味を持つことはなく、3歳で始めたピアノに打ち込み、コンクールにも出場した。18歳まで続けたが、技術が上がれば音を伸ばすためのペダルを踏む動作が必要となる。「これ以上のレベルを望むのは厳しい」と思い、断念する。多感な時期は「みんなと同じことができない」が苦痛だった。

 

高校卒業後、熊本県庁に就職する。幅広い年代の人との出会いがあり、運転免許を取って行動範囲も広がった。「気持ちが前向きになり、新しいことに挑戦したいと考えるようになった」。その時に思い出したのが高校生での出来事だった。
17歳の時、ショッピングセンターで買い物中に偶然、車いすバスケ女子強化指定選手の平井美喜と出会い、競技への勧誘を受ける。車いすへの強い抵抗があったので断ったが、「平井さんは『気が向いたら連絡して』と言ってくれた。母が連絡先のメモを受け取り、それをずっと持っていてくれた」頭の片隅に車いすバスケがあったのは確かだった。「新しいこと」と車いすバスケがすぐにリンクし、ためらわずに行動した。練習時間と場所を教えてもらい、見学に行った。

安尾が見た光景は想像を超えるものだった。「イメージと全然違った。スピードがあって、衝突して、激しい。でも格好良かった。自分と同じように障がいがある人たちが本気でスポーツをして、汗を流している姿に感銘した」。スポーツだから気持ちが前向きになるのか。自分もやったら変わるのか。いろんな感情が湧き上がり、「すぐにやってみたいと思った」。

初めて乗った競技用車いすの衝撃は今でも鮮明に残っている。「機動性に優れ、スピードが出る。衝突しても転ばない。それまで乗っていた車いすと全然違った。走るってこんなことなのかと思えた」
初めての競技用車いすは、簡単に扱えるものではない。細かな操作ができるまで時間がかかった。今でも、思い描く動きと取り回しにギャップがあり、満足したことはない。それでも「やればやるほどスキルは上がる」のがうれしかった。身近に平井という手本になる選手がいたことも成長を早めた。

 

大きな決断となった大分移住

競技を始めて3年が過ぎた2015年、25歳以下の日本代表に選ばれて世界選手権に出場する。同年代の世界の選手と対戦することで、「もっと上手になりたい」と刺激を受ける。しかし、翌16年に熊本地震が発生。自身や親族も被災したが、県職員として復興に奔走する。「毎晩遅くまで業務に追われ、バスケどころではなかった。夢であってほしいと何度も思った。つらすぎて記憶にない」。忙しい毎日だったが、バスケと日本代表への思いは募るばかり。「中途半端でやるのは嫌だった。仕事もきちんとしたいが、バスケもしたい」。悩んで考え抜いた末に出した結論は「このまま練習できなければ代表は遠のく。代表でプレーできないならバスケをやめよう」だった。目標が定まったが、楽しいと思えるようになった車いすバスケへの未練はあった。「最後に思い切りバスケをしてやめようと思った」
元パラ女子日本代表アシスタントコーチの徳永祐政が指導する大分のクラブチームの練習に参加し、 競技への思いを断ち切るはずだった。練習を終え、帰宅途中に今後の人生を考えた。「仕事を選んでもバスケを選んでも後悔はするだろう。それなら好きなことをやって後悔しよう」。帰り着いた時には「仕事を辞める」を選んでいた。

 

安定した職を捨て、親の反対も押し切り、17年4月、練習環境が整った大分に移り住む。「今考えてもすごい決断だった。若さと勢いですかね」と笑うが、自信がなければ決断できなかったはずだ。「東京パラに出場したい」という漠然とした目標が、「活躍したい」という明確な目標になった。
しかし、環境を変えても直ちに成果が出たわけではない。「習慣のスポーツなので、すぐにうまくはなれない。成功と失敗を繰り返し、経験を積んだ。思い描く成長ではなかったが、徹底して基礎から練習した」18年に強化指定選手となり、インドネシア2018アジアパラ競技大会に出場する。この頃から日本代表に定着し、自分のプレースタイルを確立できるようになった。障がいレベルの重い安尾はオールラウンドにプレーできる選手ではない。自分がチームのために何ができるかを考えた末にたどり着いた答えが〝汗かき役〟だった。「スコアラーにいいパスを供給する。ノーマークの選手をつくるため、スペースを設けて相手選手をブロックする。相手のポイントゲッターに仕事をさせないよう、1対1のスキルを磨いた」。華やかなプレーではないが、チームにとって必要な選手になった。

 

これまで歩んできた道は苦難の連続だった。「この経験が今度どう生きるかなんて分からない。コロナ禍で練習も制限されていたので、これから先のことも確定できるものはない。でも、バスケを続け、新しい目標を見つけて頑張りたい思いは変わらない」。両親は障がいがある娘に「笑(えみ)」と名付けた。困難が普通の人より多いのは生まれた時から分かっていたが、「どんな場合でも笑顔を絶やさぬように」との願いを込めた。「好きなんですよね、自分の名前」。安尾は、誇らしげに笑みを浮かべた。

安尾 笑の哲学

好きなことをやって後悔しよう